クロアチア料理をひとくくりに説明することは難しいです。
日本人には、全然イメージが無い為、店に来るお客様まで
「何を食べさせられるの?」と言う方も多くおられました。
そのことは、私にとっては凄くストレスであり、同邦として
クロアチアに申し訳なく思っていました。
店では、お客様にストレス無く、楽しくクロアチア料理を感じて頂く為に、
周辺国の料理を用いて、「イストリアは北イタリア料理に近く
、ダルマチアは南イタリア料理に近く、中部クロアチアは、
ドイツやハンガリー料理に近く。。。」といった説明をしていました。
でも、本音は韓国や中国料理で日本料理を説明しているようで、
差異のわかる私としては本当にクロアチアに申し訳なく思っていました。
クロアチア料理は地方料理の集合体ですが、各地方料理の本質を
理解するには歴史、気候、地理、文化、宗教などの理解も必要になります。
各地方の特色を理解することで、これから掲載するレシピを各地方の献立と
して再現したとき、各地方の食卓のハーモニーが、クロアチアの風が食卓を
流れることでしょう。
クロアチアの歴史と料理
クロアチアでは、自国をバルカンでは無いと言う意見が強いです。実際、クロアチアは
中世以降、ヨーロッパとオスマン帝国の境であり、歴史的にみるとヨーロッパの側で
あったと見る方が正しいと思います。ただ、食文化や言葉と言う意味では
旧ユーゴ圏のバルカン諸国と共通の文化を持つことは確かです。
「先史時代」
クロアチアの歴史は、先史時代 に遡ります。バルカン半島における最古の人類はクロアチアのシャンダリャ洞窟で発見された人の骨や歯は中期更新世前半で、アウストラロピテクス群に属する最古のヒトのものです。さらに中期石器時代にはネアンデルタール人の遺跡がクロアチアのクラピナでも洞窟遺跡が発見されています。後期旧石器時代の遺跡も多く。前6500年ごろには農耕・牧畜が西アジアより伝播し、前5000年頃までにクロアチアを含むバルカン全域に普及しました。
そしてアドリア海沿岸部ではダルマチアを起源とするインプレッソ土器文化(貝殻を押し当てた装飾土器が特色)が発達されています。
「古代ギリシャ~ローマ時代」
古代ギリシャ(BC12世紀頃)、旧ユーゴスラビア周辺と同じ地域には
イリリア人 が青銅~鉄器時代に至る文化を保持しながら定住していました。そして紀元前4世紀にはアレクサンドロス大王によって征服されることとなりましたが、アレクサンドロス大王死後、イリリア地方にはローマが進出、紀元前2世紀に属州となりました。ローマ支配下のイリリア地方はローマとの文化的、経済的交流が活発で、ローマ帝国最強の軍団の提供を行ったり、クラウディウス・ゴティクス、ルキウス・ドミティウス・アウレリアヌスなどの英才がイリリア出身であったとされています。
イリリアとは、ギリシャ語で「北に住む人」と言う意味でHVAR島にはギリシャ人の入植跡と区画整備された農地が残っています。
イリリア人の入植地
つまりクロアチア地域ではギリシャ人がワイン、オリーブ、(硬質)小麦、ガルム(
gáron) と言う魚醤の栽培・生産を持ち込み、ローマ時代に入るとワインの酢の酸味、ハチミツで煮詰めたブドウ汁、干したイチジク、プラム、レーズンの甘味(甘酢調味料)が広まりました。これは、トマトが出てくるまでは、大変重要な味付けでした。このことは、クロアチアの甘酸っぱい野菜の煮物料理として各地に残っていて、一つの特徴となっています。ハム、サラミ、豆や穀類などの生産も行われていました。また、ローマの貴族となったイリリアの貴族は、ローマと同じような前菜、オリーブやハム、サラミ、豆類の煮物といった現在と同じくらい豊かな食生活をしていました。また、沿岸部では薄いパン(現在のボスニア風パンに近いもの)を焼いていたようです。魚介類も多いに食され、スズキ、タイ、、ウニ、カキ、タコ、イカなどが多いに食されました。肉は豚肉が中心で、牛肉は農耕用として使われる為、食用にすることは禁じられていました。(使役に使われなくなった牛や育てるのには数が多すぎた仔牛は例外として食されていました。)
AC:286年になると、ダルマチア出身のヴィオクレティアヌス帝がローマ皇帝になります。スプリットに宮廷を移しました。彼は軍事、政治手腕に優れ、膨張し統治が難しくなった領土を4分割し、4人の皇帝と4人の副皇帝を配してを統治させ広大な領土を統治しました。そのころのクロアチアは、イリリアの他にダルマチアとパンノニア(現在のスラボニア、セルビア、ボスニアの一部)が勢力を増し、ダルマチア、パンノニアに領土を2分割しました。
ヴィオクレティアヌス帝時代のクロアチア
ヴィオクレティアヌス帝の死後、ローマは北方他からの侵略を受け、東西ローマに分かれ、
ダルマチア以東は東ローマ帝国となります。紀元6世紀半ばになると、北東からモンゴル系のアバール人の進出が始まり、ビザンツ帝国はクロアチア人・セルビア人をダルマチア方面に入植させます。この移動が西スラブ、南スラブ、東スラブの分離であったとの歴史的な見方もありますが、クロアチアは、いまだダルマチア、パンノニアに分かれていました。
北スラブ:薄緑、緑:東スラブ 紺:南スラブ
9世紀のキリスト教の布教がクロアチアの地方性をより強くしたのかもしれません。当時のキリスト教は、ローマカトリック、それに属するフランク教会カトリック、コンスタンティノープルの正教の三つ巴の勢力が競い合っていた。正教はグラゴル文字を用い布教を行い、フランク王国のカール大帝がダルマチアに進出した際、フランク教会を通じてカトリックを受け入れました。その前からスラブ語の経典が使われていましたが、ドブロブニェクに大司教区が設置されラテン語経典が広まりました。しかし、ザダル地方のニンの教会を中心にスラブ語経典も広く用いられました。このことは、現代にも続くスラブ語とラテン語経典の正当論につながります。
統一国家 クロアチア
フランク王国の進行に対抗してビザンツ帝国もクロアチアを領土にしようと進行して来たのが紀元800~870年代ですが、その頃になるとフランク王国の制度を取り入れたクロアチア人勢力が台頭し、初代クロアチア公トルピミル1世が出現、フランクの諸制度を導入し、。ダルマチア・クロアチア公となったヴラニミルが登場したことによりクロアチア統一が進み、ビザンツ帝国から逃れて、879年にローマ教皇に独立国家として承認されたことで、フランク王国からも独立しました。さらにニンの長 トミスラヴ1世 がフランク王国やマジャール人、ブルガリア人らを撃破するに至り、924年パンノニア及びダルマチアは、クロアチア人の統一国家が出来ました。日本でいう平安時代のことです。しかし、トミスラヴ1世が928年に死去すると後継者争いがおこり、1076年からはローマ教皇がクロアチアを支配しました。そのため、縁戚関係にあったハンガリー王ラースロー1世が裁定を依頼され、さらに1094年にはザグレブに司教座を開設。ラースローの後継者であったカールマーン1世の治世となり、ハンガリー王位継承後、1097年クロアチアを占領、1102年にはクロアチア、ダルマチア王位も兼ねることとなりました。これ以降、クロアチアはハンガリーの支配下となりました。ただし、カールマーン1世はクロアチアの自治を認めたていた為、クロアチア人貴族から「太守」が任命されていました。一方、ダルマチアにおける港湾都市はヨーロッパとアジアを結ぶ要衝であったため、ビザンツ帝国とベネチア共和国の勢力が争っていました。ザダルはヴェネツィアの勢力下となっていました。そして、幼少期をビザンツ帝国で人質として過ごしたベーラ三世が即位すると、ダルマチア、ボスニア地域を征服し統一が成されたが、ベネチア中心で十字軍の遠征が始まり、またもダルマチア域はベネチア支配下となってしまいました。このあと一度はダルマチア北部を奪還しますが、1241年ベーラ4世の時代にモンゴル帝国の大遠征があり、ハンガリー王はダルマチアまで逃れてハーンの死で遠征が収まり、辛くも領土を奪還しました。特質すべきはドブロブニェクで、ハンガリー、オスマン帝国のいずれの治世でも独自の外交(税金を収めるなど)を展開し、戦火を逃れて反映をし続けました。
2大帝国時代(オーストリア・ハンガリー帝国とオスマン帝国の支配)
1400年代に入るとクロアチアにもオスマン帝国が進出しだし、1409年にはダルマチアがその勢力下に至り、スラヴォニア地域も奪われ、クロアチア人の多くはイタリアやハプスブルグ領内に逃げ込みました。その跡地に、ボスニアからの多くの避難民が逃げ込みました。その後もオスマン帝国とハプスブルク(オーストリア・ハンガリー)帝国の国境線としてクロアチアは位置することになり、ハプスブルク帝国がダルマチア北部からスラヴォニアを「軍政国境地帯」として直接統治を行いました。それに合わせ、17世紀から18世紀にかけてコソボ地域の多くのセルビア人らがスラヴォニアへ国境警備兵として入植、これは「大移住」と呼ばれ、このことが後に「セルビア人問題」を生じることとなりました。(1991年にクロアチア紛争を勃発させることとなります。)
17~19世紀は、ハプスブルク家の台頭に伴う、中央ヨーロッパ包囲網の先方としてクロアチアはキリスト教世界の防人としての軍事的最前線に位置し続けます。料理の世界で言うとこのオーストリア、ハンガリー、オスマントルコの支配がクロアチア料理の一つの特徴になります。ローマ、ギリシャ的であったクロアチア料理が、ハンガリーの影響で粉末パプリカを多様することになり、パプリカッシュ、グラーシュと言った料理を日常食にしました。又、オーストリアの影響でソーセイジ、ベーコン、シュテューデルと言った菓子類、トルコの影響でケバブやチェバプチチ(皮なしケバブ)、サルマ(ロールキャベツ)、ブレク(パイ)、ピッタ(菓子)などが日常食となりました。この時代までは、貴族の料理と庶民(漁師や農夫)の料理は別々だったようです。
近代~現代
近代になると、ヨーロッパ各国の近代統一国家の波がクロアチアにも訪れ、ユーゴスラビア王国が生まれます。2次大戦以降は、ユーゴスラビア社会主義連邦共和国としてクロアチア、ボスニア・ヘルツェゴビナ、スロベニア、セルビア、マケドニア、コソボ、アルバニア、モンテネグロが連邦国家になります。歴史書を書いている訳ではないので、その間の歴史より料理に関して言うと、ユーゴスラビア(南スラブ人の国)になって一番の出来事は、べゲタの登場です。ベゲタ(Vegeta)は香辛料と数種類の野菜を混ぜあわせた調味料で、1959年にボスニア・ヘルツェゴビナ系クロアチア人の科学者のズラタ・バートルが開発して、世界中で販売される商品です。クロアチアのコプリヴニツァにあるポドラフカ社が生産しています。ベゲタの原材料は塩 、乾燥野菜 (ニンジン、パースニップ、タマネギ、セロリ、パセリ) 、旨味調味料 、砂糖、香辛料、着色料で共産圏各国他、全世界40カ国で発売されるヒット商品となりました。何よりポドラフカ社がユーゴスラビア連邦全土で料理番組を放送しだしたことで、ユーゴスラビア料理と言われる食文化圏を形成させました。
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ユーゴ時代と言うのは、いい時代だったようで、多くのクロアチア人の友人がその時代の祭りや色々なことを懐かしんで話します。
1960年代になると戦後の復興が進み、共産圏の人たちの中でバカンスを楽しむ人も多くなります。西側に行けない時代ですから、ポーランド、チェコ、ソロバキア、ハンガリーといった国々の人達もクロアチアの海に行くことになり、ホテルでインターコンチネンタルスタイル(誰でも受け入れられる)料理が必要とされ、求められるようになりました。また、貴族の料理をベースにホテルの料理は形成されましたが、一方でソベ(民宿)、コノバ(食堂)と言った庶民の料理を出す店も多く出来るようになり、クロアチアらしい料理、より地方性の強い料理が注目されだしたのもこの時代です。
1990代に入るとユーゴスラビアは各国が分離独立をしてクロアチアには90年代後半から西側の富裕層がリゾートに訪れるようになりました。また、クロアチアとして独立したことで、2000年代に入るとクロアチア料理の専門書、各地方ザグレブ、中部クロアチア、ダルマチア、イストリア、スラヴォニア料理の本(英語、イタリア語、ドイツ語版も出版)が発売されクロアチア国内でもより地方性を細分化した料理の研鑽がなされる様になりました。
冒頭述べた様に、クロアチア料理は各地方料理の集合体であり、古代ローマ、中世、近代の歴史上、多くの人々が定住出来ず大移動を繰り返したクロアチアは、地方によって全く味付けや料理が異なります。ザグレブはハプスブルク家の支配が強まった1800~1900代に拡大した街でオーストリア料理の影響が色濃く残っています。イストリアは北イタリアの影響が色濃く、クロアチア全土で作られるラキアと言うバルカン伝統の酒もイストリアだけグラッパが主流です。ダルマチアは、